旅行貯金History



1. 旅行貯金を始める前

最初に、私が、切手収集を始めたのが、1979年、小学校4年の時でした。その頃は、新発売の記念切手が主でしたが、普通切手も集めたり、また、切手商で古い普通切手、記念切手を買ったりもしていました。また、「スタンプくんの切手教室(日本郵趣出版)」などの、郵趣関係の本も買い、「アルバム」を作ったり、ということもしていました。

1981年7月7日、「広告付きはがき」の第1号が発売されました。全国版で、スポンサーはホンダと東芝の2種でした。1枚ずつながら、私も買いました。翌年には地方版の発売も始まり、東京版だけですが、お金のあるときは買っていました。当時は、今のように地域限定はなく、東京版なら、東京都全域の郵便局で発売していました。また、発売日も、ほぼ毎月1日、と決まっていました。1984年からは、夏休みなど、1日が休みのときは、神奈川・埼玉県にも、買いに出かけるようになりました。

一方、最初の頃は、「切手収集」に、「消印」は"邪道"と思っていたのですが、1983年からは、なぜか、風景印も集め始めるようになりました。もともと、家の近所を自転車で走りまわるのが好きだったのですが、それに、「郵趣」の要素を加えた?とでも言いましょうか。翌年、さらに1985年、と、行動範囲が広がり、1985年末には、早くも、多摩地区の風景印完集をするまでに至りました。

ところで、郵趣とは独立に、私は、鉄道にも興味を持ちはじめていました。その頃、たまたま、当時の国鉄が、「いい旅チャレンジ20,000km」というキャンペーンを行っていました。国鉄の「線区」を乗っていき、全線を完乗しよう、というものです。1981年、私も入会し、自宅の近所の青梅線に乗り、「1線区踏破」をしました。その頃、たまたま近所の図書館に「鉄道ジャーナル」誌が置いてあり、私も読むようになりました。その時に、"レイルウェイ・ライター"の種村直樹氏の名前を知り、翌年には、「種村直樹の汽車旅相談室」という本を買って読むようになりました。ただ、この頃の私は、氏が旅行貯金もやっている人だとは全く知りませんでした(笑)。

2. 旅行貯金「はじめの1歩」

上述のように風景印を集めて廻っていたとき、いくつかの局で、「貯金はやらないの?」と聞かれることがありました。当時の私は、私らしく(?)、「郵便の趣味に貯金は邪道だ」と思っていました。

高校に入り、クラスメートが、郵便局で年賀状のアルバイトをやり、アルバイト代を郵便貯金の通帳に入れていたのを見て、私も、郵便貯金の通帳を作りたくなり、1986年2月17日、高校近くの立川柴崎局で、通帳を開設しました。この時は、まだ、この通帳で旅行貯金をやるかどうかは決めておらず、ゴム印は押してもらいませんでした。そして、同月25日、入試のため、高校が平日ながら休みとなり、風景印収集のため、厚木方面へ出かけることにしましたが、この時、何かの気の迷い(?!)か、この通帳を持って行きました。そして、最初に行った愛川郵便局(神奈川県愛甲郡)で、風景印を収集した後、預入票に、100円と書いて、おそるおそる、貯金窓口に持っていきました。しかし、旅行貯金のことについては、何か窓口の人に余計な手数をかける気がして、私の口から言うのは、少々ためらわれました。100円だけ、というのも、何か恥ずかしい気がしていました。

すると、窓口の人が、「支払高の欄に、局のゴム印を押すのですね。」と言い、100円預入の後、支払高の欄に、「愛川郵便局」のゴム印を押してくれました。この瞬間、旅行貯金の「はじめの1歩」が記されたわけです。あとの局では、ゴム印の押してある通帳を見せれば、同じように処理されたので、局数は少しづつ増えていきました。

ずっと後で、種村直樹氏の本を読んで知ったのですが、この頃は、旅行貯金の「ゴム印押印拒否騒動」が収束したしばらく後であり、もう少しタイミングがずれていたら、また、違った運命となったことも十分想像されてしかるべきだったようです。

3. 旅行貯金初期

かくして旅行貯金は始めたものの、当時私は高校生で、自由に使えるお金が少なかったこと、また、当時は、あくまでも主力は風景印であったこと、で、貯金は、お金がある時、時間がある局でのみ行っていました。後で考えると、風景印収集で一度廻った地域を、貯金のために再度廻る、というケースが多数出てきて、非常にもったいなかったのですが。で、1年目の1986年は、136局でした。

1988年、予備校に通うようになり、23区内が行動範囲となったため、23区の訪問局が増えました。ちなみに、この年の4月1日から、預入の際の主務者印が省略可能になっています。これもあり、私のルールでは、主務者印は「義務」にはしていないのです。この年の10月31日、東京中央郵便局で通算300局目の貯金をしますが、これを最後に、"大学に合格するまで"貯金は自粛することとしました。

1989年、元号が昭和から平成に変わりました。

大学には合格し、旅行貯金は再開しますが、この頃は、まだ、風景印が主力であり、また、旅行では、JRの乗りつぶしが主であったため、貯金の方は劇的には増えませんでした。

4. 大量貯金時代到来

1990年は、私と旅行貯金との関係に、一大転機が訪れた年になりました。

3月、今まで続けてきた「いい旅チャレンジ20,000km」キャンペーンが、とうとう終了しました。旅行の目的、モチベーションとして、新たなものを探す必要が出てきたのです。そこで注目したのが、一つは、「いい旅チャレンジ20,000km」では行けなかった、鉄道の通っていない離島巡りでした。また、缶紅茶の収集も始めました。それと同時に、旅行貯金が見直されてきたのです。背景としては、この年、車の運転免許を取得し、車・バイクでの行動が可能になったこと、また、家庭教師のアルバイトを始め、経済的な面でも少し余裕が出てきたこともありました。

この年の7月、通っていた大学に自転車で乗り付け、大学周辺の局を集中して廻り、旅行貯金を始めて初めて、月間の貯金局数が100局の大台を超えました。8月は伊豆諸島、9月は佐渡が島に行ったのですが、そこでは、平日の日中は郵便局で貯金をして廻るようになりました。12月には、千葉県習志野局で通算1000局を達成しました。さらに、月の後半には再び大学に自転車で行き、この1ヶ月だけで181局となりました。

翌1991年は、更にペースが上がりました。大学の授業のある期間中でも、休講の時間には局めぐに走るようになりました。この年の3月には、とうとう沖縄県に行き、47都道府県に「足を踏み入れた」こととなりました(未貯金の県はありましたが)。

夏には、父の原付を借りて、北海道を廻り、日本最北端の局での貯金、日本最東端の局での風景印押印(貯金は時間切れでできなかったが)をしました。9月には通算2000局を達成しましたが、1→1000局は4年10ヶ月かかったのに対し、1000→2000はわずか9ヶ月で達成と、ペースは急速に加速していました。

結局、1991年は、1年間で1214局を訪問、ということになりました。なお、この年から、「郵貯ラリー」が始まったのですが、理由があって、参加しませんでした。これは、7.で述べます。

1992年4月1日、全国の簡易郵便局のオンライン化が「完了」し、オフライン局は、例外的な存在となりました。私は、この年以降、大学の研究室に入ったこと、東京都内の郵便局の未訪が少なくなったこと、などもあり、年間の貯金局数は、だんだん減少していきました。

それでも、その年の12月31日には、新宿二郵便局で、「島部を除く東京都完訪」、1994年4月には、鳥取県境港局で、「全都道府県で最低1局以上貯金」、1995年、1996年には、それぞれ、神奈川、埼玉県で、「(簡易郵便局を除く)郵便局完訪」を達成しました。

5. 現在

1997年1月、新宿郵便局で、「全国郵便局名録'96」(武田 聡編、(株)鳴美)を購入し、未訪の簡易局がわかるようになりました。それまでは、郵便局のリストとしては、NTTタウンページを使っていました。このリストを元に、6月17日、神奈川県で、「郵便局・簡易郵便局完訪」を達成しました。8月11日には、埼玉県でも達成しました。この日、ほぼ4年ぶりに、オフライン局の訪問もしました。8月14日には通算6000局としています。

1998年、長く住み慣れた東京を離れ、茨城県に引越し、茨城県の郵便局の訪問が増えるようになりました。さらに、インターネットが普及し、旅行貯金も、同好の方との交流が気軽にできるようになり、情報交換が頻繁にできるようになりました。

そして1999年…

そういえば、「ノストラダムスの大予言」で、「世界が滅亡する」と言われていた年に、何時の間にか、なってしまいました。世界が滅亡するかはともかく、郵便貯金は、民営化、など、「滅亡」の可能性が否定できなくなってきています。

しかし、これは、今年ではなさそうです。では、今年はどういう年になるか...

今年は、仕事が忙しくなりそうで、貯金局数は減りそうです。しかし、夏か秋、4年ぶりに北海道に行く予定にしています。また、最近御無沙汰になっている関西方面も行きたいか…、年内には日立市に行き、「茨城県内人口10万以上の全都市の1局以上訪問」を達成しよう、とも思っています。

6. 旅行貯金の理由

では、どうして、旅行貯金が私に向いたのか…

これはもちろん難しい問題なのですが、一つ考えられることは、こんなところでしょうか。

私の指向は、スポーツに例えると、「テニスより陸上」というのがあるのだと思います。
テニスは、自分と相手との相対的な「力の差」を試す競技なのに対して、陸上は、例えばマラソンなら自分の「時間」を、幅跳びなら「距離」を試す競技という面が強く、あくまでも「自分との戦い」となるわけです。

私が切手収集をやっていたことは、1.で述べましたが、これは、その後やめています。例えば、切手収集では、「交換」という行為で、自分が、郵便局なり切手商なりで買わなくても、コレクションを増やすことができます。しかし、旅行貯金は、「情報」の交換はできますが、「貯金局数」は、あくまでも自分で増やさなければなりません。自分が同じ郵便局に2度行き、別の人が他の郵便局に2度行ったからといって、「貯金局」の交換はできないでしょう。これも「自分との戦い」です。

このように、「自分自身との戦い」のほうが、「他人との戦い」よりも好きだ、というのが、あったのだと思います。

また、私は、旅行貯金で何を目指すのか…

これも難しいですが、一つには、「郵便局をインターフェース、手がかりとして、その街の文化を味わう」というのがあるのかな、と思っています。

近代の日本は、町づくりの画一化が進み、一見、どの街も同じように見えてしまいますが、そこに住んでいる人々は街によって違うわけであり、観察眼を鋭くしてみると、何か、違ったもの、新しいものが見えてくる、可能性があるわけです。

郵便局は、比較的、街のあちらこちらに散らばっているので、郵便局を巡るのは、街の、より深い部分を味わうのに、よい手がかりになれるのです。

その割に、東京・神奈川・埼玉といった近県が多いのですが、私は、「1km先でも地球の裏側でも同じ旅行」というモットーを掲げていまして、たとえ近くの街でも、観察眼を鋭くしてみると、新しい発見が、あるはずだ、という信念を持っています。

また、私は、エコーはがき・風景印を集め、絵入りはがき・小型印は集めないのですが、これも、「街の文化を味わう」というキーワードと関連しているのかも知れません。
エコーはがきは、地元の企業が広告主になっている場合も多く、エコーはがきは、その街の産業、文化を想像する良い手がかりとなってくれます。一方、絵入りはがきは、人工的に「観光地」として作られた場所が題材になっている場合が多く、私が自分の方法で、その街の産業、文化を想像するには、やや、画一的であるきらいがあるのです。
同様に、小型印は、その街が、「観光」として造ったイベントに関連する場合が多いのに対し、風景印は、その街にある、何気ないものが題材になっている場合も多く、私の想像力がかきたてられるわけです。

だから、私は、「郵便局のシステムそのものの奥深さを追求する」という方向とは、少し異なってきます。
人気漫画「ドラえもん」の、有名な秘密道具に、「どこでもドア」というものがあります。もし、その方向ならば、郵便局間の移動は、すべて「どこでもドア」で良いこととなります。しかし、私の旅行貯金の方法論では、「どこでもドア」は使えないこととなるでしょう。

それに、上で述べたとおり、私は、「郵便」から郵便局に入ってきたこともあり、「システムの奥深さを追求する」方向は、少なくとも貯金・為替・振替などについては、関心がないのです。

7. 「郵貯ラリー」に参加しない理由

これも、大して理由があるわけでもないのですが…

第一に、私が「いい旅チャレンジ20,000km」に参加していたことは上で述べました。このキャンペーンでは、結局、「全線踏破賞」をもらったのですが、実際には未乗のJR路線がいくつもありました。これは、ルールが、「線区の始発駅と終着駅で、自分と駅名標が一緒に写った写真を撮る」というものだったのですが、このルールでは、例えばJR南武線のように、始発駅と終着駅が、ともに他の路線と共用の場合、始発駅と終着駅で写真を撮っても、その間は他の路線を廻る、ということができたためです。もちろん、本数の多い南武線なら、わざわざそうする必要もありません。が、地方の、1日数本しか列車の走らないローカル線の場合は、その始発駅で写真を撮って、実際の移動は、列車本数の多い幹線で移動する、というケースを結構やりました。
逆に、せっかく路線に乗っても、写真の撮影に失敗して、踏破申請ができないケースも多々ありました。

これで思ったのは、私の習性、「他人の作ったルールでは、必ず、そのルールの抜け穴を探したがる」でした。結局、ルールに従うには、自分でルールを作るしかないのです。
「いい旅チャレンジ20,000km」では、「他人の作ったルールで自分の趣味をやる」ことに、非常に苦労しました。「郵貯ラリー」で、この二の轍を踏みたくない、と思ったのです。

また、「郵貯ラリー」の開始は、1991年でしたが、前年末までに、既に1000局以上廻っていた私としては、それを御破算にはしたくない、と思ったのもありました。

更に、郵貯ラリーのルールにも、いくつか、私の主義と異なるところがあり、私は、参加を見送ることとしているわけです。


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